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こうの史代 『夕凪の街 桜の国』

悪意なき差別とどう対峙すべきか

この物語は、ただ広島の原爆の悲惨を描いただけのものではない。悲しみを描いただけでもない。読んでいくと、原爆とは何か、原爆の残したものとは何なのか、戦争とは何なのか、そのことを根本から問おうとしているように思われた。
 前置きに「広島のある日本のある世界を愛するすべての人へ」(p.4)という作者の言葉があるが、広島を契機として、「ヒロシマ」、さらに人間社会の混沌としていてドロドロした矛盾、不条理、見たくないものを見つめた作品だと感じた。

 『桜の国』の章で、僕の心に残ったのは、息子を思う母親から出た、

「…あんた被爆者と結婚する気ね?」(p.84)
「何のために疎開さして養子に出したんね?」(同)
「なんでうちは死ねんのかね」(同)
「うちはもう知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ」(同)。

 たった、一ページにある母親の言葉だ。

 広島で原爆を受けた母親がさらに、息子の結婚したいという被ばくした女性に対して反対しようとする場面だ。同じ被ばくという体験をしてきた女性が、同じく被ばくしてきた女性を差別しようとしている矛盾、不条理。
弱いものが、さらに弱いものを否定する。しかし、これは悪意のある差別ではない。理由のある善意があるからこその差別といってもいいだろう。人を思う気持ちがあるからこそ、息子を思う気持ちがあるからこその言葉であり差別だ。

 原爆を受けたという苦しみや痛み、だが「死ねなかった」という思い、皆が死んだ中で今も生きていていいのだろうかという煩悶、そういうことを味わった人間から出てきている言葉だ。

 僕は、現時点でこの言葉を受け入れることはできない。が、しかし否定することもできない。答えがあるわけでもない。この言葉が正しいか正しくないかもわからない。正しいとか正しくないとかで判断できるものでもないのだろうとも思う。唯一できることは、この言葉の持つ意味を考え問い続けることだと思う。
 
 この言葉をどう受け止めていけばいいのか、どう向き合っていけばいいのか、どう対峙していけばいいのか。ずっと問い続けなければいけない。少なくとも僕はそう感じた。
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中井久夫 監修・解説 2016『統合失調症をほどく』(ラグーナ出版)。

統合失調症をほどく第一級のテキスト

統合失調症の当事者やその家族、精神科医から絶大な信頼をえている臨床の精神科医である中井久夫氏による数々の言葉をテキストとして、ラグーナ出版で働く統合失調症の「患者」たちが編みなおしたものが本書である。

そのテキストを読んで「考える患者」たちがコメントし、体験談や中井氏との対談などから構成されている。「考える患者」とはラグーナ出版で働く統合失調症患者たちであるが、ひいては統合失調症の読者たちのことでもあるだろう。

「当事者研究」で有名な北海道浦河の「べてるの家」の人々が統合失調症患者の「軟」的志向だとすると、本書の「ラグーナ出版」の人々は直接的「硬」的志向であるとい言えるかもしれない。

タイトルの『統合失調症をほどく』の「ほどく」とは、「解く」であり、回復を意味する「寛解」(かんかい)を目指すための本である。私の知る限りでは、これほどよくできた本は無いように思う。たまには本屋に行くものだなぁと感じた一書である。

また、この本は「臨床の場」、「看護師」「医師」「当事者」「その家族」にとって、きわめて有意義なものであるといえる。中井氏の言葉は統合失調症を持つものにとって、とても「腑に落ちる言葉」があり、「どうしてこうも、分かっているのだろうか?」、「そういうことか!」と感じるほどである。なぜ中井氏はこうもわかるのだろうかと考えてみると、おそらく中井氏は、ポール・ヴァレリーをはじめとして、詩歌の翻訳をやっており、精神医学的知識・経験と「詩心」と合わせ持つからではないか。詩心は、直観と理論との橋渡しをするのではないかと私には思われるのである。

私(統合失調症当事者)は、しばらくは中井久夫氏の言葉とともに、統合失調症を解(ほど)いていきたいと思うのである。2016年の中でも、収穫のあった一冊である。

ちなみに、『中井久夫集』[全11巻]が来年2017年1月、みすず書房より刊行開始されるそうです。

姜尚中、鈴木二郎 『民族の共生をもとめて』(部落問題研究所)1993

原理的にはナショナリズムと個人主義は矛盾しない


本書は、政治学の姜尚中と社会人類学の鈴木二郎の対談である。80ページほどのブックレットである。「民族の共生」をテーマにするという実践的な本であり、内容的にわかりやすく、ともすれば、さらりと読んでしまうかもしれない。かなり前に出版されたものであるが、現在にも通じる示唆に富む内容である。ブックレットという形式で一般向けの対談であるが、学問的にもレベルの高いものである。

対談は、日常から考える「民族」から始まり、「民族とは何か」ということが語られる。民族の指標として「われわれ意識」、言い換えればアイデンティティ、つまり主観的なものである。そこが二人の共通見解であり、エスニックな客観的指標はあまり重視していない。ここが一つポイントである。「民族的であるということは主観的なものだというのは、逆に言うとそれは相対的なものであって、したがって自分とは違うような主観的な帰属意識を持っている人を、自分とイコールなものとしてみとめなければならない」(姜p.29)。

次に両者の同意見として「東側、旧ソビエトなど」の行ってきた「民族政策」の基本的な考え方に、学ぶところがあるとの認識である。もちろん、これらの旧社会主義国は人民の自由だとか情報の公開という点で問題を多く持つのであるが、民族政策に関しては見直す必要があるとの認識である。例えば、スターリンの民族政策や、オットー・バウアーの考え方である。

民族の問題を考えていくときに、危機的なマイノリティの民族についてはアイデンティティを確認し、それをかためていくためにエスニックな要因を強化する必要があるが、しかしそれを推し進めていくと今度はマイナス要因に転化する。マジョリティの大民族という力を持つ民族については、民族意識をどんどん弱めて、うすめていくという方向をとらないといけない、との認識を鈴木は示す(p.33)。言い換えれば、多数派の力のある民族は力を弱め、抑圧されているような少数派の民族は力を強める方向にもっていくということだ。民族(ナショナリズム)の現れ方は状況により千差万別であるとの鈴木の認識から出ている発言であると思う。

このことを原理的に言い換えてみよう。ナショナリズム(民族運動)は集団主義なので、個人より集団の利益を優先する。しかし、マイノリティの民族は、個人が集団的指標(民族的指標)により抑圧されているので個人主義と矛盾しない。つまり個人を解放するには、集団的指標から解放されねばならないからだ。しかし、どの社会的運動にも見られるように、社会運動は集団を存続させるために自己目的化しやすい。運動のため運動というようにだ。個人より集団の利益を優先してしまう傾向が強くなるのである。

個人主義と矛盾しなかったマイノリティの少数民族運動(ナショナリズム)が、その否定を介さない延長線上に個人を否定してしまう抑圧の運動(集団主義)へと反転してしまうということだ。ここに革新的な少数民族擁護者と保守的な右翼的民族主義者の言説の奇妙な一致をみることができる。

そして鈴木は、「日本国民」という概念ははっきりしているが、学問的にも「日本人」とは何か、「日本民族」とは何かなんてわかっていないとの見解を示す(鈴木p.33)。世の中は、メディアも含め、あまりにも「日本人は」という言葉を使って話されるが、その「日本人」の意味する内実はなにもわかっていないということであり、相対化しなければいけない概念であるということだ。

姜・鈴木の議論は、似通っていて対談としては落ち着くところに落ち着いてしまっていることは否定できない。だからと言って耳を傾けるに値しないものでは決してないし、なれ合いにもなっていない。共通の認識として、「人権」「市民」といった普遍的概念と、「民族」といった特殊な概念とをどう結びつけるか、というのが未整理であり、これからの課題であるとする。いかに「民族」を国家から引き離し、相対化していくか、ということが議論されている。研究者にとっても、そうでなくても、一読に値する対談である。
プロフィール

mamu895

Author:mamu895
トーシツの持病(障害)を持っていることもあり、非正規で働くアラフォー男です。なかなか本は読めないし、書評も思うように進みませんが、本は好きなので読んで良かったと思う本・感動した本を紹介していけたらなと思います。今後読みたい本なども書いていけたらと思います。最近になり改めて公共図書館の魅力を感じています。

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