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姜尚中、鈴木二郎 『民族の共生をもとめて』(部落問題研究所)1993

原理的にはナショナリズムと個人主義は矛盾しない


本書は、政治学の姜尚中と社会人類学の鈴木二郎の対談である。80ページほどのブックレットである。「民族の共生」をテーマにするという実践的な本であり、内容的にわかりやすく、ともすれば、さらりと読んでしまうかもしれない。かなり前に出版されたものであるが、現在にも通じる示唆に富む内容である。ブックレットという形式で一般向けの対談であるが、学問的にもレベルの高いものである。

対談は、日常から考える「民族」から始まり、「民族とは何か」ということが語られる。民族の指標として「われわれ意識」、言い換えればアイデンティティ、つまり主観的なものである。そこが二人の共通見解であり、エスニックな客観的指標はあまり重視していない。ここが一つポイントである。「民族的であるということは主観的なものだというのは、逆に言うとそれは相対的なものであって、したがって自分とは違うような主観的な帰属意識を持っている人を、自分とイコールなものとしてみとめなければならない」(姜p.29)。

次に両者の同意見として「東側、旧ソビエトなど」の行ってきた「民族政策」の基本的な考え方に、学ぶところがあるとの認識である。もちろん、これらの旧社会主義国は人民の自由だとか情報の公開という点で問題を多く持つのであるが、民族政策に関しては見直す必要があるとの認識である。例えば、スターリンの民族政策や、オットー・バウアーの考え方である。

民族の問題を考えていくときに、危機的なマイノリティの民族についてはアイデンティティを確認し、それをかためていくためにエスニックな要因を強化する必要があるが、しかしそれを推し進めていくと今度はマイナス要因に転化する。マジョリティの大民族という力を持つ民族については、民族意識をどんどん弱めて、うすめていくという方向をとらないといけない、との認識を鈴木は示す(p.33)。言い換えれば、多数派の力のある民族は力を弱め、抑圧されているような少数派の民族は力を強める方向にもっていくということだ。民族(ナショナリズム)の現れ方は状況により千差万別であるとの鈴木の認識から出ている発言であると思う。

このことを原理的に言い換えてみよう。ナショナリズム(民族運動)は集団主義なので、個人より集団の利益を優先する。しかし、マイノリティの民族は、個人が集団的指標(民族的指標)により抑圧されているので個人主義と矛盾しない。つまり個人を解放するには、集団的指標から解放されねばならないからだ。しかし、どの社会的運動にも見られるように、社会運動は集団を存続させるために自己目的化しやすい。運動のため運動というようにだ。個人より集団の利益を優先してしまう傾向が強くなるのである。

個人主義と矛盾しなかったマイノリティの少数民族運動(ナショナリズム)が、その否定を介さない延長線上に個人を否定してしまう抑圧の運動(集団主義)へと反転してしまうということだ。ここに革新的な少数民族擁護者と保守的な右翼的民族主義者の言説の奇妙な一致をみることができる。

そして鈴木は、「日本国民」という概念ははっきりしているが、学問的にも「日本人」とは何か、「日本民族」とは何かなんてわかっていないとの見解を示す(鈴木p.33)。世の中は、メディアも含め、あまりにも「日本人は」という言葉を使って話されるが、その「日本人」の意味する内実はなにもわかっていないということであり、相対化しなければいけない概念であるということだ。

姜・鈴木の議論は、似通っていて対談としては落ち着くところに落ち着いてしまっていることは否定できない。だからと言って耳を傾けるに値しないものでは決してないし、なれ合いにもなっていない。共通の認識として、「人権」「市民」といった普遍的概念と、「民族」といった特殊な概念とをどう結びつけるか、というのが未整理であり、これからの課題であるとする。いかに「民族」を国家から引き離し、相対化していくか、ということが議論されている。研究者にとっても、そうでなくても、一読に値する対談である。
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加藤周一・樋口陽一(対談)『時代を読む   「民族」「人権」再考』小学館、1997.

日本人・日本国民のアイデンティティとしての憲法九条

  先日亡くなられた加藤周一と、憲法学者・樋口陽一との対談である。「時代を読む」というタイトルだが、戦後を振り返るところから始まり、憲法施行50周年を前にして、二人が「憲法」「人権」「自由」「平等」「民族」「国家」「近代」「歴史」など、さまざまに論じあっている。決して抽象的にならず、歴史的な事実関係、具体的な時代状況を重視し対談は進められる。対談した1996年の日本や世界の状況をもよく見据えながら、一般論でなしに、具体的に論じているところが好感をもてる。10年以上前の本なので、いささか言い古された感も否めないが、ハッとするような視点、論点を提供してくれる本である。加藤の言葉を中心に言葉を拾ってみることにする。

 絶対的に正しい戦争はない、戦争の「義」とは相対的なものだということについて、加藤は次のように言う。「ほとんどすべての国際紛争はシンメトリーになっていて、どちら側から見るかで正反対になる。だから、悪いやつだけは例外であると言っても全然意味をなさないわけで、立場を変えれば悪いやつが良いやつになる」(加藤pp.104-5)。

 また、文化の「正しさ」の相対性や多数決や、多数派や小数派の意見について、「日本の政治家はミルやトクヴィルを読んだほうがよいと思う。日本社会はもう少し彼らを本当に評価する必要があった。それなしで多数決ということになると、我々がよく聞くように議会で『多数決だから我々が正しい』ということがまかり通ることになる。/多数だから正しいのではなくて、正しいのはどっちかわからないから、仮に多数に従う。これが勘どころだと思う」(加藤 pp.180-1)と述べる。

 だからと言って、加藤も樋口も、文化相対主義や多文化主義の隘路に陥ることはない。「人権というのは、個人の自己決定に最終的な価値を置く立場であって、これと、それをどうでもよいという文化の間に相対主義的立場をとることはできない。コンスティチューショナリズム(立憲主義)とか人権というのは、批判を可能とする文化です」(樋口p.25)との立場を取る。加藤も人権は西洋生まれだが、普遍的なものであるとの立場を取っている。

 加藤は、どこの国民にとっても、人間の誇りは必要だろうと思うと述べたあと、個人としての誇りのほかに「日本国民」あるいは「日本人」として誇るものは「民主主義と平和主義の他に何があるだろうか」(加藤p.152)と述べている。どうやら片仮名で外国語なまりの言葉を多用するところをみると日本語でもなく、また江戸時代の歌舞伎でもなく、壊し方をみても自然と町の美しさでもないようだと述べたあと、「そうすると何が残るのか。戦争をしないとか軍備を持たないとか、憲法第九条の平和主義ではないか。反戦や軍事力にたいする警戒心が、一番大事な点でしょう。それを明け渡してしまうと、国民の誇りの中心というかアイデンティティの根拠がなくなってくるのではないですか」(加藤p.153)と述べている。つまり「国民のアイデンティティとしての憲法九条の精神」(樋口p.153)を主張している。これを日本人、日本国民のアイデンティティ(≒誇り、拠り所)としたらどうか、ということだ。
 
 結論的に、加藤は進むべき道として、「将来へ向かって行く方向は、主権の制限なのであり、ことに交戦権に関して、主権を制限しなければならない。/別の言い回しをすれば、無制限な主権があって、どの国にも交戦権があるという考え方の結果、戦争は起こったわけです。それがたびたび繰り返されるので、戦争のない世界へ向かって歩み出すためには主権の制限という概念を、まず第一歩として受け入れなければいけない」(加藤p.139)。主権の制限に関して、「憲法九条の交戦権の放棄とはネイション・ステートの主権の制限だ」(加藤 p.188)。と述べ、「核技術の発達によって原子爆弾が生まれて科学武装の時代になり、戦争の性質がまったく変わってしまった(中略)。核兵器が登場する前にはいろんな理由によって武装が正当化されていたけれど、核兵器によって戦争が究極的には『核戦争』ということになると、まったく状況が変わってしまう。最後はどういう方向へ進むべきかというと、武装放棄に行くほかない」(加藤 p.188)という加藤の結論である。

 この本はアメリカ9.11同時多発テロの5年前に編まれたものであり、テロについての発言は少ないが、国連のあり方やアメリカのあり方などにも言及している。時代的制約はあるが、さまざまな含蓄のある言葉がつづられている。



オンライン書店BK1に2009/01/11 投稿

小学館→岩波書店

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姜尚中・鈴木二郎(対談) 1993 『民族の共生をもとめて』(部落問題研究所)

「民族」概念の相対化を目指した実践的な啓蒙書

本書は、政治学の姜尚中と社会人類学の鈴木二郎の対談である。80ページほどのブックレットである。「民族の共生」をテーマにするという実践的な本であり、内容的にわかりやすく、ともすれば、さらりと読んでしまうかもしれない。15年ほど前に出版されたものであるが、現在にも通じる示唆に富む内容である。ブックレットという形式で一般向けの対談であるが、学問的にもレベルの高いものである。

対談は、日常から考える「民族」から始まり、「民族とは何か」ということが語られる。民族の指標として「われわれ意識」、つまり主観的なものである、ということが二人の共通見解であり、エスニックな客観的指標はあまり重視していな。ここが一つポイントである。「民族的であるということは主観的なものだというのは、逆に言うとそれは相対的なものであって、したがって自分とは違うような主観的な帰属意識を持っている人を、自分とイコールなものとしてみとめなければならない」(姜p.29)。

次に両者の同意見として「東側、旧ソビエトなど」の行ってきた「民族政策」の基本的な考え方に、学ぶところがあるとの認識である。もちろん、これらの旧社会主義国は人民の自由だとか情報の公開という点で問題を多く持つのであるが、民族政策に関しては見直す必要があるとの認識である。例えば、スターリンの民族政策や、オットー・バウアーの考え方である。

民族の問題を考えていくときに、危機的なマイノリティの民族についてはアイデンティティを確認し、それをかためていくためにエスニックな要因を強化する必要があるが、しかしそれを推し進めていくと今度はマイナス要因に転化する。マジョリティの大民族という力を持つ民族については、民族意識をどんどん弱めて、うすめていくという方向をとらないといけない、との認識を鈴木は示す(p.33)。言い換えれば、多数派の力のある民族は力を弱め、抑圧されているような少数派の民族は力を強める方向にもっていくということだ。民族(ナショナリズム)の現れ方は状況により千差万別であるとの鈴木の認識から出ている発言であると思う。

このことを原理的に言い換えれば、民族運動は集団主義なので、個人より集団の利益を優先する。しかし、マイノリティの民族は、個人が集団的指標(民族的指標)により抑圧されているので個人主義と矛盾しない。つまり個人を解放するには、集団的指標から解放されねばならないからだ。しかし、どの運動にも見られるように、社会運動は集団を存続させるために自己目的化しやすい。つまり、個人より集団の利益を優先してしまう傾向が強いのである。個人主義と矛盾しなかったマイノリティの少数民族運動(ナショナリズム)が、その否定を介さない延長線上に個人を否定してしまう抑圧の運動(集団主義)へと反転してしまうということだ。

鈴木は、「日本国民」という概念ははっきりしているが、学問的にも「日本人」とは何か、「日本民族」とは何かなんてわかっていないとの見解を示す(鈴木p.33)。世の中は、メディアも含め、あまりにも「日本人は」という言葉を使って話されるが、その「日本人」の意味する内実はなにもわかっていないということであり、相対化しなければいけない概念であるということだ。

姜・鈴木の議論は、似通っていて対談としては落ち着くところに落ち着いてしまっていることは否定できない。だからと言って耳を傾けるに値しないものでは決してないし、なれ合いにもなっていない。共通の認識として、「人権」「市民」といった普遍的概念と、「民族」といった特殊な概念とをどう結びつけるか、というのが未整理であり、これからの課題であるとする。いかに「民族」を国家から引き離し、相対化していくか、ということが議論されている。研究者にとっても、そうでなくても、一読に値する本である。








2008/04/05 bk1に投稿
プロフィール

mamu895

Author:mamu895
トーシツの持病(障害)を持っていることもあり、非正規で働くアラフォー男です。なかなか本は読めないし、書評も思うように進みませんが、本は好きなので読んで良かったと思う本・感動した本を紹介していけたらなと思います。今後読みたい本なども書いていけたらと思います。最近になり改めて公共図書館の魅力を感じています。

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