スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

こうの史代 『夕凪の街 桜の国』

悪意なき差別とどう対峙すべきか

この物語は、ただ広島の原爆の悲惨を描いただけのものではない。悲しみを描いただけでもない。読んでいくと、原爆とは何か、原爆の残したものとは何なのか、戦争とは何なのか、そのことを根本から問おうとしているように思われた。
 前置きに「広島のある日本のある世界を愛するすべての人へ」(p.4)という作者の言葉があるが、広島を契機として、「ヒロシマ」、さらに人間社会の混沌としていてドロドロした矛盾、不条理、見たくないものを見つめた作品だと感じた。

 『桜の国』の章で、僕の心に残ったのは、息子を思う母親から出た、

「…あんた被爆者と結婚する気ね?」(p.84)
「何のために疎開さして養子に出したんね?」(同)
「なんでうちは死ねんのかね」(同)
「うちはもう知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ」(同)。

 たった、一ページにある母親の言葉だ。

 広島で原爆を受けた母親がさらに、息子の結婚したいという被ばくした女性に対して反対しようとする場面だ。同じ被ばくという体験をしてきた女性が、同じく被ばくしてきた女性を差別しようとしている矛盾、不条理。
弱いものが、さらに弱いものを否定する。しかし、これは悪意のある差別ではない。理由のある善意があるからこその差別といってもいいだろう。人を思う気持ちがあるからこそ、息子を思う気持ちがあるからこその言葉であり差別だ。

 原爆を受けたという苦しみや痛み、だが「死ねなかった」という思い、皆が死んだ中で今も生きていていいのだろうかという煩悶、そういうことを味わった人間から出てきている言葉だ。

 僕は、現時点でこの言葉を受け入れることはできない。が、しかし否定することもできない。答えがあるわけでもない。この言葉が正しいか正しくないかもわからない。正しいとか正しくないとかで判断できるものでもないのだろうとも思う。唯一できることは、この言葉の持つ意味を考え問い続けることだと思う。
 
 この言葉をどう受け止めていけばいいのか、どう向き合っていけばいいのか、どう対峙していけばいいのか。ずっと問い続けなければいけない。少なくとも僕はそう感じた。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

mamu895

Author:mamu895
トーシツの持病(障害)を持っていることもあり、非正規で働くアラフォー男です。なかなか本は読めないし、書評も思うように進みませんが、本は好きなので読んで良かったと思う本・感動した本を紹介していけたらなと思います。今後読みたい本なども書いていけたらと思います。最近になり改めて公共図書館の魅力を感じています。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。